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芦部信喜「宮沢憲法学の特質」(2)

  「三 民主主義的憲法学−基本的特質(2)−」  「1 価値相対主義」  ラートブルフ、ケルゼン、ラッセルに影響を受ける形で、宮沢憲法学の「民主主義ないし民主制」を 基礎づけ 、「法の科学と解釈を峻別する方法論に 具体化 」されたのが「 価値相対主義 」である。  「2 民主制の特質」  宮沢憲法学における民主主義は、「 自由主義と不可分 」なものであり、相対主義により支えられるもの解される。これと異なり、ケルロイター、スメント、シュミットやライプホルツらは、この不可分性を否定していたが、宮沢はこの不可分性の「否定」を、「 民主制に扮装した独裁制 」を支持する立場として考え、その「 イデオロギー性とその誤謬 」を戦前戦後一貫して批判し続けた。更に、ここでの民主主義を支える相対主義は「 世界観 」として考えられた。  更に宮沢憲法学においては、相対主義と民主主義の理念が、「憲法学の基本問題に、人権論、平和主義論に、あるいは議会制論」に具体的に展開された。「相対主義的世界観において 最高の絶対の価値 を認められる『個人の尊厳』」は、憲法の「 最も根本的 な指導原理」であって「民主主義の 基礎 」と解された。宮沢の中では、国民主権、個人の尊厳、基本的人権の尊重がセットになっており、個人の尊厳が「 社会国家 を、 平和国家 を基礎づける原理である」と解された。  芦部信喜「宮沢憲法学の特質」、同『憲法制定権力』(1983年、東大出版会)186−190頁。

芦部信喜「宮沢憲法学の特質」

  「一 序−若き日の問題意識」  宮沢は、法の 科学者 、法の 哲学者 、法の 解釈者 という「三者を兼ね備え、それぞれにおいて最高水準をゆく業績」をあげた「きわめて稀な憲法学者であった」。  「二 科学的憲法学−基本的特質(1)−」  「1 理論的態度と実践的態度の区別」  「日本の憲法学が真の 科学としての憲法学 になったのは、宮沢憲法学をもって嚆矢とする」と言っても過言ではない。宮沢は、天皇機関説や時代を踏まえ、学説を「 実践的意欲 の作用である法の解釈」と「 理論的認識 の作用である法の科学」とに区分し、後者の「『 公定 』は学問研究の自由を奪う」旨論じ、両者を厳しく分類したうえ、「対象の政治性と方法の政治性を 峻別 すること」を主張した。宮沢は、上の二つの区分が「 実際にはきわめてむずかしい ことを十分に意識」しながらも、この区分が「人間の『人格』において統一される」、区分の「止揚によって両者の綜合が実現される」とした。   宮沢からすると明治憲法下での学説は、この区別ができておらず、「憲法の客観的な認識よりも政治的判断」を重視し、「『科学』の 仮面の下 に種々の政治的主張ををなした「 神学的・形而上学的 」憲法学であったということになる。穂積、上杉の時代と、美濃部、佐々木の時代どちらも「科学と実践との区別という点では 両者の間に質的な相違はなく 、程度の差」があるにすぎなかった。  「2 科学と実践の関係」  以上のような宮沢の憲法学に対しては、「科学と実践とを 峻別 すること自体」への疑問が向けられた。これについて宮沢は、「戦前においては、 両者の混沌 を強く排斥」したが、科学と実践を「架橋すべからざる対立関係にある」とは考えず、先にあるように「 綜合 」の関係にあると考えた。宮沢は、法の解釈には、「現行法学・法史学・比較法学などの法の科学」が必要とされ、解釈者は「法の科学の 追求 を決して怠ってはならない」し、法の科学者は、法は最終的には 具体的に適用 されるものであるから、「法の解釈 をも 研究しなければならない」、と主張した。「宮沢憲法学における解釈論を、事実と解釈を架橋しない完全な二元論と評するのは 正しくない 」。  芦部信喜「宮沢憲法学の特質」、同『憲法制定権力』(1983年、東大出版会)169−181頁。

穂積八束「皇位」

  「立国の大本」  「子孫ハ共同の始祖ヲ崇拝シ其ノ保護ノ権力」に服従することで、家の平和を作る。この家における「天賦ノ始祖ハ 父祖 」である。そして国の始祖は、民族の始祖であって、我が国においては、「 皇室 」が民族の始祖の「正当ノ連綿タル者ナリ」。「一家ハ一国ヲ成シ、一国ハ一家ヲ成ス」。家も国も「父祖ヲ崇拝シ、其ノ威霊ノ」下で生を全うすることになる。家における 家長 の位は、祖先の霊がいるところであり、「現世ノ家父代リテ其ノ位」にいる。一方国における「皇位ハ即チ天祖ノ威霊」の在るところであって、「 現世ノ天皇 ハ天祖二代リ天位」にあって、民族を統治することになる。 「 国ハ家ノ大ナル者 、家ハ国ノ小ナル者」、これが我が国建国の大本であり、「 国体ノ淵源 」はここにある。  「統治の大権」  国体は歴史の成果であり、「民族ノ確信二存立」するものである。そしてわが国の国体は、歴史と民族の確信に照らすと、「我ガ 万世一系ノ皇室 ヲ以テ 統治主権ノ本体 」とするものである。そして、天皇が国を統治するという場合、それは「君主ノ天職ハ国土民族ヲ保護」することを明らかにし、保護のための「 権力ハ天皇ノ身位二在ル ノ義」を明白にするものである。  長尾龍一編『穂積八束集』(2001年、信山社)65−71頁。 

穂積八束「国家」

  「国家の人格」  ① 「通説ハ 国家ヲ法人 」として理解する。私はこれに対し、国家を「単二 人格 ヲ有スル」ものとして理解する。この法人という言葉は「通俗ノ用例極メテ乱雑」なものであるが、学者はこの乱雑さ等に乗じて、「国家ハ法人ナリト謂フノ外形無難」な定義を掲げ、そこにひそかに「国家ハ 民主協和ノ社団 」ということを暗示させようとしているが、「 猾悪 」であろう。国家が人格を有することは、「国体ノ君主制タリ共和制タル二 関セサルナリ 」。進歩した「国家ノ特質ハ法人タルニ在ル」と主張して、旧来の君主国に対して「 一種異ナルノ 法人国ナル者存立」するかのような誤解を生じさせるのはでたらめである。  ② 国家を「 公法人 」と理解するものが多い。もし人格に「公私ノ二種アリ、国家ハ公法人ノ人格ヲ有スル」と主張するのであれば、それは誤りである。「国家モ個人モ、共二公法ノ上ニモ、私法ノ上ニモ、 同時二人格者 」であるからだ。「国家ト 国庫 トヲ法律関係ノ上二分割シ」、前者を公法人、後者を私法人とする解釈があるが、「個人ノ身体ト」財産とを分離して、 人格 「 二様ヲ謂フモノ二似テ 」いるため、私は支持できない。  ③ 私は「国家二自主ノ生存アリ」とするが、これを「否認」し、国家を「 人ト人トノ会社契約 ニシテ」、独立自主の権力ではないとする人もいる(「 民約説 」)。しかし「歴史ノ事実之ヲ証明」するものはないし、我々の「日常ノ直感二反」シ、この説の根底については、我々と「 立脚ノ基礎ヲ異ニスルモノ 」である。  長尾龍一編『穂積八束集』(2001年、信山社)61−62頁。

佐伯千仭「違法類型としてのTatbestandの構成」

  タートベスタントは「 罰すべき程度の違法性 を備えた態度の型(可罰的違法類型)」である。  「タートベスタントは違法類型」であり、違法判断をする場合「必ず何らかの価値判断の尺度に照らして」行われる。そして具体的違法判断は、殺人や、詐欺といった各行為の「一つとして違法」なのであり、違法は 類型性 を持つ。  違法類型と違法性自体との関係如何。M.E.マイヤーは、「タートベスタント該当なことと違法性の存在との関係は『 あたかも煙と火の関係 』」にあり、タートべスタントに該当することは「違法性の認識根拠」であるとした。一方メツガーは、タートべスタントを「 火それ自体 」、「単なる認識根拠ではなくて、違法性の実在根拠」であるとした。  タートベスタントは「 裁判官 にとって」「違法認識の第一段階」であるが、このタートべスタントと違法阻却事由は「原則型と例外型の関係にある」。「行為が違法なために通常備えるべき要素」(原則)とそれらがあっても「違法だといえなくするところの特殊事情」(例外)は類型化されている。「複雑な人生はこのような 原則・例外の関係なしにはやって行けない のである」。  タートべスタントが違法類型であるとすると、「違法要素」は何か。また「違法要素と責任要素の区別の標準は何か」。これについてへーグラーは、違法判断を「行為を 行為者の人格・主観から切離 」した「 ザッハリッヒ 」なものとし、「責任の判断は ペルゾェーンリッヒ 」なもの、「行為を 行為者の人格 と結びつけ」把握するものとした。「違法が客観的であり、責任が主観的であるというのもこれよりほかのことではない」。但し例外として、「内心的要素が違法性」、「外部的要素が責任に属して各々その構成要素となることがありうる。 主観的違法要素 の問題がこれである」。  佐伯千仭「タートベスタント序論」、同『刑法における違法性の理論』(1974年、有斐閣)123−130頁。

佐伯千仭「主観的違法と客観的違法」

  主観的違法論と客観的違法論については、 メツガー の理論を見なければならない。  前者は、法を「『ただただ人の行為に対する 命令規範 』」と考える。ここで主観的違法論に対しては、「法は『命令規範』 であるだけ なのか?」という第一の問題が生じる。この点については、「命令規範としての法は 評価規範 としての法」を必要とする、この「評価規範としての法は命令規範としての法の無条件的な論理的前提」となる、と解される。  次に、「評価規範、命令規範いずれの上に不法論を立てることが 実際上より合目的的 であるか」という第二の問題が生じる。前者の上に立てれば客観説、後者の上に立てれば主観説となるが、「実際的合目的性」により、どちらを選択するかが判断される。この点、法の課題は人々の外的な「 共同生活 」を確保するとことにあるとすれば、客観説が正しいことになる。「法は客観的生活秩序であり、違法は、したがって、この 客観秩序の侵害 である」。  客観的違法論に対する反論として、「雷や雷電もまた人間と同様に違法に行動しうることになる」というものがある。この反論が前提とする「違法の主体」の考えについては、違法概念は、「違法に行為する主体なしには考えられない」というのは誤謬である(「 受命者なき規範 」概念)という批判を向け得る。  ここで「違法と責任が理論上截然と区別され」るに至った。では責任はどう解されるべきか。今まで主観的違法論が、「不法の本質的要素であるとした 主観的要素 は」「違法の中から脱落せしめられて」「 責任概念の中心 とされることになった」(E・シュミットらの 規範的責任論 に注意)のである。  佐伯千仭「主観的違法と客観的違法」、同『刑法における違法性の理論』(1974年、有斐閣)80−94頁。

稲田陽一「憲法概念の展開」

  「五 現代憲法の展開」  19世紀終わり、資本主義は「 矛盾 を一層激化させ」、同時に「労働者階級の社会的・政治的比重」が高まったため、「支配者側も、 階級対立 を緩和し、体制の危機を避けるため」労働者に選挙権を付与し、結果、議会民主主義が確立していった。一方この「矛盾をそらす」ため、独占資本は「帝国主義的植民地獲得に向かい」「第一次大戦となって爆発した」。その後、1919年にはワイマール憲法が成立した。この憲法は「古典的立憲主義憲法から見て画期的であり、当時最も進歩的であると謳われ」た。  しかしながらワイマール憲法は、「急進化するドイツの労働者階級」等にたいし、「人間的な最低生活の保障と社会化を約束し、それが議会民主主義の道によって 実現できるかの如き期待 」を与えることで、プロレタリア革命が勃発するのに「 ブレーキをかける役割をもつ もの」であった。とは言え、これは「 支配階級の譲歩 であり」「幻想であるにせよ、大衆の利益を計ることを正面に掲げねば」体制が維持できなくなっていることの表れでもあった。  なお注目すべきは、「中間階級」が「無産階級へ転落」する危機も存したため、彼等による「その 既得の地位保全 への強い要求」に応えるべく、支配階級は「彼等の要求をを受容し 自己の側に引きつける 」と同時に、「統治体制そのものを支えてきた支柱として、伝統的制度の温存を」ねらった。これがワイメール憲法下での「『 制度保障 』」であった。  そして第二次大戦後、ドイツではナチスが打倒され、西ドイツでは「『 人間の尊厳 』と『 人格の自由な発展の権利 』を冒頭に掲げ、社会的法治国原理に立つ基本法が制定された」。「そこにおいて クライン は」、「 第三者効力 に関連せしめながら」 原則規範 について、「それは国家生活の基本原則であり、憲法外部分法秩序ないし 全体法秩序の最高の原則 であり」「共同生活の基礎的秩序である」として、基本権の第三者効力を是認した。  なお確立していった国民主権と、この第三者効力の関係はどうか。近代立憲主義の進行に伴い、「国民の地位が次第に向上し、国民主権が確立」し、国民が国家の主人公となった。そして「このような 国民の地位を最も本質的に規定 」するのが基本的人権であって、「国民主権と基本的人権とが コロラリーをなす 」と解される。  具体的に、人