2022年11月26日土曜日

伊藤正巳「少数意見制」

  多数意見や法定意見の結論や理由に同調できないとか、それらの不十分さを補う必要があると考える裁判官に対し「顕名でその個別の意見の公表することを許すかどうか」は、国の裁判における政策に関係する。このような意見の表示を認める制度を「少数意見制と呼ぶならば」、日本においては、戦後最高裁について認められた(裁判所法11条)。この制度は、どう用いるかに付き「裁判官的思考に傾く裁判官と学者的思考に偏る裁判官の間に相違がみられるように思われる」。

 「1 少数意見制の得失」

 少数意見制のデメリットとして、次のようなことが言われる。

 ① 裁判所における意見分裂を示すのは、「法の安定性を害」し、「安定性に対する民衆の信頼感を減退させる」。しかし、少数意見特に僅差である旨の表示は、「法の不安定な状況を示唆」することで「将来の法の変化、判例の変更」を予測させることもあり得るので、デメリットとは言えない。

 ② 少数意見制は「裁判所の権威を害」し、「裁判所全体の威信を減退する」(ヨーロッパ大陸)。そこでは、判例たる「多数意見のみが一枚岩のように示されることが、裁判への信頼を生むとされるのであろう」。しかし、「全員一致の裁判」の形をとり、少数意見の表明を抑えることが、裁判所の権威を高めるのか。これとは反対に、英米法的考えからすると、各裁判官に各意見を述べる機会を付与するほうが、「外部から見ても裁判官の独立を保障し、司法の権威を増すともいえよう」。ここに大陸法と英米法における裁判観の違いがあるように思われる。

 ③ 少数意見制では、扱われた問題に「疑問がなお残っており、最終的な決着がついていない」ことが示されるため、判例として定着するまで、同種の問題を争う「訴訟を誘発し、濫訴を招きやすい」。ただこれは、当該「問題が重大であり、決着を求める欲求がつよいから」であるとも言え、少数意見制がなければ訴訟の誘発を防げたかどうかは確信できない。

 ④ 少数意見が、判決の結論を左右するものでなく、しかも、「法的に見て価値に乏しい『独り言』に堕する危険性」。但しこれは、「少数意見の内容にかかわることであり」、「それをもって制度そのものを否定」する欠陥とは言えない。

 ⑤ 少数意見の存在が、「多数意見の内容を歪曲し、不適当な判例を生み出す可能性をもつ」。少数意見が多数意見に反論する場合、多数意見の判旨を歪曲することがあり得るし、「歪曲された多数意見が判例として生き残り、一般化していくこと」があり得る。また、少数意見による反撃に対し、多数意見自体が「極端な見解への論及」に誘われる。最後の点は、少数意見公表に伴う弊害であるが、日本では、「私の乏しい経験からいって、少数意見を論駁するために」多数意見が無用の論及をすることは「ほとんどないように思われる」。

 一方少数意見のメリットはなにか。

 ア 少数意見の多数意見への批判により、「裁判所内部でのいわば自己批判を可能」とする。この結果「判決の質が向上し、多数意見という判例となる意見の含む法原則が慎重に形成される」。 

 イ 少数意見の公表が、かえって「合議で審理がつくされ、各裁判官の注意深い深慮のもとで」判決が出されたと確信させ得る。これは「司法の権威のために必要である」。

 ウ 少数意見は、「各裁判官の資質、能力を判断し、その思考のあり方を知るための材料を提供する」。特にそれは、国民審査のための「最も重要な素材となる」といえよう。

 エ 少数意見は、「判例変更の素地を提供し、法の発展に対して大きな意味」を有する。少数意見の影響により、法律や政令の改廃が行われる例はアメリカでは多い。日本ではこのようなことはあまりみられないが、津地鎮祭訴訟判決の後、「地方自治体が公共的建築の地鎮祭の費用を支出しなくなった運用」は、有力な少数意見も何らかの役割は果たしたと言えなくはないだろう。

 オ 裁判所が、社会的経済的条件の変化に応じ 「法を生成させていく」役割について、少数意見がその方向性を示唆する機能。ここでは少数意見が「法的安定に資する意味のあることをみのがすことができない」。

 伊藤正巳「少数意見制」『裁判官と学者の間』(1993年、有斐閣)70ー81頁。なお行政書士試験2022年第1問は、上記②の部分からの出題である。

2022年11月15日火曜日

瀧川幸辰「刑法の人と学説(その五)」

  「一 刑事政策学派の指導者リスト」

 リストは、「刑事政策に目標を与えた人」で、「政治家肌」の人柄を有していた。大学教授になった後は、自己の研究室を「世界の各大学の刑法教授の養成所」と考え指導にあたっていた。そして晩年は、プロイセンの国会議員として政治と関係した。このリストを「刑事政策学派の指導者」ということが一般的だが、「理論刑法の学者としても第一流であった」。

 なおリストは、音楽家のフランツ・リストとは「従兄弟になる」。リストの父と音楽家とは特に仲が良かったため、「刑法学者は音楽家に可愛がられて大きくなった」。刑法学者が音楽を通じ国際文化に触れたことは、「その一生涯を通じて国際主義者として生きぬいた」要因となった。

 「二 刑事政策学派の発展」

 リストの刑事政策は、二つの思想「一つは社会防衛、他の一つは法的安全の思想」の上にある。刑罰の任務、目的は、犯罪人を社会に適合させるかそこから淘汰するかのいずれかであるが、「制限のない合目的的な処置」を彼は拒否する。具体的には、「行為となって現れない犯罪的意思」の処罰や、「法律が犯罪としない反社会的行為」の処罰は許されないとした(「刑法典は犯罪人のマグナ・カルタである」)。

 リストの理論には、「構成要件にしばられる刑法理論」(「法的安全と行為」)と「行為者だけを眼中において構成せられる刑事政策」(「社会防衛と行為者」)との間に緊張関係、二元主義が見られるー「『刑法は一方の手を犯罪人に対して脅迫的に突出し、他方の手で犯罪人をかばう』(イェーリング)」ー。

 リスト刑事政策の中心思想は、「改善可能者を改善し、改善不能者に対しては犯罪を行うことができないような処置をとる」というものだが、「改善可能を誇張することに反対し」「教育刑に対しては控目」な態度を取る。また改善不能者に対しての不定期刑については「極めて厳格な態度」をとり「社会防衛のための厳重な拘禁」を主張した。

 「三 刑法理論学者リスト」

 リストの刑法理論は「客観主義」(刑事政策では社会防衛が重要)であり、刑法では、「法的安全の思想」「裁判官の専断から犯罪人を保護すること」が重要であるとした。そしてリストの理論においては、犯罪の成立に「行為、違法、責任、構成要件の四つ」が必要とされ、犯罪は「客観的な行為として、外界に現れた意志変化として、明白な出来事として」表現されるとした。

 瀧川幸辰『刑法講話』新版(1987年、日本評論社)114-121頁。

2022年11月6日日曜日

瀧川幸辰「刑罰」

 「一 刑罰の本質」

 刑罰は、犯罪(悪行)に対する応報(悪報)であり、「善行に対して褒美が与えられる」のと同じ関係にある。「『汝から出たものは汝に帰る』」のであり、ここに言う「悪行に対する悪報の要素を備えていない刑罰は、いつの世にもなかった」。応報は、「犯罪と刑罰を結びつける唯一の普遍的な要素」である。

「二 刑罰の存在理由」

 刑罰の存在理由を論証したのはヘーゲルである。「法の否定である犯罪を重ねて否定して、法を復活させる」そこに刑罰の存在理由が成立するという。つまり、「刑罰は法の否定の否定である」。

 なお、ヘーゲルの見解は、カントに比べると「一つの進歩であると考えられる」。カントは、「ただ、犯罪という悪のために刑罰という悪を加える」、そして「犯罪があれば必ず刑罰を科さねばならない」とする。それに対してヘーゲルは、ただ単に悪を犯したので更にこれに悪を加えることの不合理性を宣言したが、そこに「近代的感覚」が見られるからである。

 「三 刑罰の苦痛性の理由付け」

 ヘーゲルによれば刑罰は苦痛であるが、犯罪に対する反動として是認せられる根拠はどこにあるか。ヘーゲルはこれに答えていないが、「苦痛の贖罪作用がこれに答える」。

 この苦痛によって「犯罪はつぐなわれ、責任は解除せられて、社会は元の清らかな状態に復する」。苦痛の贖罪作用は「世界史上意味の深い思想の一つである」。文芸作品が罪と罰を題材とする理由も、この思想が「人性に深く根ざすところの要求に合する」からである。「ヒーローの悲劇的責任」がつぐなわれて「美と調和が成り立つ」。「罪のないのに苦しむ悲劇」に芸術的に価値のないわけは、「罪をつぐなうことに」「美をもたらす力があるからである」。「刑罰の責任解除」も、悲劇における罪と罰の関係と同様のものがある。

 瀧川幸辰『刑法講話』新版(1987年、日本評論社)235-239頁。

2022年9月29日木曜日

原田尚彦「裁量権収縮論」

 「一 法治行政と行政便宜主義」

 行政庁は、公共の安全と秩序を保持する責任を負い、「そのために国民の権利自由に規制を加える権限を有している」。そしてこの権限は、「行政法規の授権するところに従い、法規にそって行使しなければならない」(法治行政の原則)。但し、授権がある場合でも「権限発動の要件が、法文上裁量事項」とされているときはもとより、「厳格な羈束条項として定められている」ときであっても、取締権限を行使するかは「行政庁が公益管理の視点から独自の裁量によって決定すべき」と解されていた(行政便宜主義)。

「二 『裁量権収縮論』の意義」

 行政便宜主義を厳格に適用すると、行政庁の取締権限不行使の結果、損害が発生しても「行政庁の不作為が違法となることはありえない」し、実際に損害が発生しても「国家賠償を求めること」も、また損害予防のために「あらかじめ取締権限の発動を請求することも」許されない。

 しかし、行政庁が取締権限を与えられているのは、公共の安全と秩序を保持する公益目的のためばかりでなく、「国民各個の法益保護」も行政権行使の目的とされている。そこで、「行政庁が取締権限を適切に行使しさえすれば」国民への被害発生は防止できたであろうのに、「漫然とこれを怠り甚大な被害を発生」させた場合、行政庁の態度を違法と評価し、その「怠慢に対し責任を追求できる道」が必要となる。つまり、行政便宜主義の下でも「例外的に行政庁の不作為を違法とする論理」が必要であり、それが「裁量権収縮論」ほかならない。

 裁量権収縮論によれば、取締権限についての「行政裁量の幅は、四囲の具体的状況との関連で限界づけられる」。この幅は、「同一の法律状態の下でも」、事実面で予防すべき危険性が増大し危険な結果発生の可能性が高くなるほど狭くなる。そして「危険がかなり甚大となって取締権の発動が緊急不可欠と認められるような状況」が発生した場合、「裁量の幅は、ついに零に収斂して、行政庁には取締権の行使が義務づけられる」ことになる。

 裁量権収縮論は、具体的事実と関連付け法規を解釈し、行政庁の取締権発動についての「決定権限の独占を制約」することで、取締権発動のイニシアティブを「ある範囲で国民の手に留保し」、国民の法益保護のためについて権力を行使させる法的手段を「国民の手に確保する」説、だと言える。

「三 『裁量権収縮論』の判例による承認」

 なお、元々裁量権収縮論は、ドイツ司法裁判所における損害賠償法理として展開された。その後1960年代に、この理論は、行政裁判において「国民が義務づけ訴訟を行政裁判所に提起して、行政庁に対して取締権限の発動を求める」ために利用されることとなった。

 塩野宏、原田尚彦『行政法散歩』(1985年、有斐閣)312-320頁。

2022年8月24日水曜日

原田尚彦「行政行為と行政処分」

「 一 行政法上の概念の特殊性」

 同学他科目の教官から、行政法学における行政行為と行政処分の概念は同じなのか異なるのか、異なるならどちらが広い概念か、という質問を受けた。今現在、「真面目に行政行為と行政処分の概念を追求する」としたなら、どう説明するのが一番適切か。


「二 従来の用語例」

 美濃部達吉、佐々木惣一共に、「行政行為には」、「行政処分のほかに、公法上の契約を含む」とされている。そして「行政行為を行政処分の上位概念として把握され」その上で行政行為全般に通用する効力を説かれているようである。

 戦後において田中二郎は、「公法上の契約を行政行為から除外されている」。そして「行政行為と行政処分を別段区別されていない」。


 「三 『処分』概念の意味」

 学者により用語の使い方は様々であって、「〇〇教授の所説はこうであるなどと、仰々しく並べ立てても、さして意味はない」。「丸暗記する必要などは、まったくない」。ただここで注意したいのは、「戦前の学説は」、行政行為や行政処分の概念を「講学上の概念として構成し」、これを「行政活動の理論的分類」に用いてきた。

 それに対し、昨今では「行政行為概念の方は」「講学上の概念であり、ある種の行政活動に付随する法的特徴を統一的に表現するための目的概念」とされ、行政処分概念は「実定法の規定に結びついた法律上の概念」として用いられている。というのは、行政不服審査法や行政事件訴訟法には「処分」という言葉を用いる規定があり(1条、3条2項)、そのため「行政処分という概念は右の規定でいう『処分』と同義に用いられることが多い」のである。

 なお戦前にも「処分」という言葉を有する法令もあった。しかし戦前の行政争訟は「列記主義」を採用していたため、争訟の対象は「個別法規の解釈で用意に確定することができた」。これに対し現行法は「概括主義」を採用しているため、「現行法のもとでは」取消訴訟の対象となるものの「判定が、比べものにならないほど重要な一般的な法解釈上の問題」となった。その意味で、行政処分概念は、「取消訴訟の対象性を示す実定法上の基礎概念として」法解釈上極めて重要な意味を持ち、「取消訴訟の対象性を表象する法概念として通常用いられていることに注意」したい。

 「四 行政処分とは、行政行為のことか?」

 こう考えると行政処分と行政行為はいかなる関係に立つか。今日の通念では、「両者は、ほぼ同一の概念」と解されており、「取消訴訟の対象である『処分』は、講学上の行政行為でなければならず、また行政行為で足りる」、となる。

 塩野宏、原田尚彦『行政法散歩』(1985年、有斐閣)166-173頁。

2022年7月24日日曜日

幸徳秋水『帝国主義』2

 「第3章 軍国主義を論ず」

軍国主義の「原因と目的」 「防御以外」「保護以外にあらざるべからず」。

 軍備拡張の原因 「一種の狂熱」「虚誇の心」「好戦的愛国心のみ」。

 甲「平和を希う」乙が侵攻しようとしている、乙「平和を希う」甲が侵攻しようとしている:「世界各国皆同一の辞を成さざるはなし」

 各国民は、「童男童女が五月人形、三月雛の美なるを誇り多きを競うが如く、その武器の精鋭とその兵艦の多きを競いつつあり」。

軍国主義者 「美術や科学や製造工業」「戦争の鼓舞刺激なくして能く高尚なる発達をなすは稀り」。

 「我は戦争が社会文芸の進歩」を妨害するのを見たが、社会の発達を助けるのを見なかった。「『膺てや懲らせや清国を』という軍歌をもって我は大文学と名くるを得ざるなり」。

軍国主義者 「刀槍艦砲」の改造進歩は戦争のおかげ。

 これは「科学的工芸進歩の結果にして」平和の功績。仮に戦争の功績としても、国民の智識道徳の進歩に貢献するところあるか。

軍国主義は「社会の改善と文明の進歩に資するを得る者にあらず」。「戦闘の習熟と軍人的生活は」、「決して政治的社会的に人の智徳を増進し得る者にあらず」。これを残す「弊毒実に恐るべき者あり」。軍国政治が「行わるる一日なれば、国民の道徳は一日腐敗するなり」。「暴力の行わるる一日なるは、理論の絶滅一日なるを意味するなり」。

 cf.ドレフュス事件におけるような「暴横なる裁判」は、「陸軍部内にあらざるよりは、軍法会議にあらざるよりは、決して見ることを得ざるところなり」。「普通民法刑法のいやしくも許さざるところ」。

「未だ軍備と徴兵が国民のために一粒の米、一片の金をだも産ずるを見ざるなり」。科学文芸宗教道徳の高遠な理想を「破壊し尽くさんとする」。

個人は武装を解かれているのに国家はそれができない。個人は暴力決闘が禁止されているのに国家はそれをできない。「二十世紀の文明はなお弱肉強食の域」を脱することができない。各国民が猛獣毒蛇の状態にあるのは恥ではないか。「これ社会先覚の士が漫然看過すべきのところなるか」。

幸徳秋水『帝国主義』(2004年、岩波文庫)51-84頁。


2022年7月9日土曜日

幸徳秋水『帝国主義』

 「第2章 愛国心を論ず」

帝国主義 「軍備」「軍備を後援とせる外交のこれに伴わざるはなし」。

 愛国心、軍国主義 「列国現時の帝国主義」にとって通有の条件。

 愛国心が愛する対象 「自家の国土」「自家の国人」「自家一身」。

愛国主義 「憐れむべき迷信」「好戦の心」「虚誇虚栄の広告」であって「先制政治家が自家の名誉と野心に達するの利器と手段に供せられる」。

 「国民の愛国心」 一旦その好むものにさからうと「人の思想をすらも束縛」し「歴史の論評をも禁じ」「総ての科学をも粉砕」してしまう。文明の道義はこれを恥とするが、愛国心はこれを「栄誉とし功名とする」。cf.「愛国的ブランデー

 軍人と愛国心 軍人は国家のために戦うというが、彼らの国家とは「皇上あるのみ、軍人自身あるのみ」。戦いの結果、軍備拡張、物価高騰、輸入超過「曰く国家のためなりと。愛国心発揚の結果は頼母しきかな」。敵人の生命、地、財を多く得ても、これのために政府の歳計「2倍、3倍」となる。愛国心発揚の結果は頼母しきかな」。 

 ① 「迷信を捨て智識」に、「虚構を捨て真実に」に、「好戦の念を捨て博愛の心」につく。これ「人類進歩の大道」。

 ② 「愛国心に駆使せらるる国民」 「品性の汚下陋劣なる」、「高尚なる文明国民をもって称すべからざる者」。

 ③ 政治、教育、商工業をもって愛国心の犠牲となさんと努る者 「文明の賊、進歩の敵」、「世界人類の罪人」。

「文明世界の正義人道は、決して愛国心の跋扈を許すべからず」。「卑しむべき愛国心は」「軍国主義となり、帝国主義となって、全世界に流行するを」。

幸徳秋水『帝国主義』(2004年、岩波文庫)19-50頁。

伊藤正巳「少数意見制」

  多数意見や法定意見の結論や理由に同調できないとか、それらの不十分さを補う必要があると考える裁判官に対し「顕名でその個別の意見の公表することを許すかどうか」は、国の裁判における政策に関係する。このような意見の表示を認める制度を「 少数意見制 と呼ぶならば」、日本においては、戦後...