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伊藤正巳「少数意見制」

  多数意見や法定意見の結論や理由に同調できないとか、それらの不十分さを補う必要があると考える裁判官に対し「顕名でその個別の意見の公表することを許すかどうか」は、国の裁判における政策に関係する。このような意見の表示を認める制度を「 少数意見制 と呼ぶならば」、日本においては、戦後最高裁について認められた(裁判所法11条)。この制度は、どう用いるかに付き「 裁判官的思考に傾く裁判官と学者的思考に偏る裁判官の 間に相違がみられるように思われる」。  「1 少数意見制の得失」  少数意見制のデメリットとして、次のようなことが言われる。  ① 裁判所における意見分裂を示すのは、「 法の安定性 を害」し、「安定性に対する民衆の信頼感を減退させる」。しかし、少数意見特に僅差である旨の表示は、「法の不安定な状況を示唆」することで「将来の法の変化、 判例の変更 」を予測させることもあり得るので、デメリットとは言えない。  ②  少数意見制 は「裁判所の権威を害」し、「裁判所全体の威信を減退する」(ヨーロッパ大陸)。そこでは、 判例 たる「 多数意見 のみが一枚岩のように示されることが、裁判への信頼を生むとされるのであろう」。しかし、「 全員一致 の裁判」の形をとり、少数意見の表明を抑えることが、裁判所の権威を高めるのか。これとは反対に、英米法的考えからすると、各裁判官に各意見を述べる機会を付与するほうが、「外部から見ても 裁判官の独立を保障 し、司法の権威を増すともいえよう」。ここに大陸法と英米法における裁判観の違いがあるように思われる。  ③ 少数意見制では、扱われた問題に「疑問がなお残っており、最終的な決着がついていない」ことが示されるため、判例として定着するまで、同種の問題を争う「訴訟を誘発し、 濫訴 を招きやすい」。ただこれは、当該「問題が重大であり、決着を求める欲求がつよいから」であるとも言え、少数意見制がなければ訴訟の誘発を防げたかどうかは確信できない。  ④ 少数意見が、判決の結論を左右するものでなく、しかも、「法的に見て価値に乏しい『 独り言 』に堕する危険性」。但しこれは、「少数意見の内容にかかわることであり」、「それをもって制度そのものを否定」する欠陥とは言えない。  ⑤ 少数意見の存在が、「多数意見の内容を歪曲し、不適当な判例を生み出す可能性をもつ」。少数意見

瀧川幸辰「刑法の人と学説(その五)」

  「一 刑事政策学派の指導者リスト」  リストは、「刑事政策に目標を与えた人」で、「政治家肌」の人柄を有していた。大学教授になった後は、自己の研究室を「世界の各大学の刑法教授の養成所」と考え指導にあたっていた。そして晩年は、プロイセンの国会議員として政治と関係した。このリストを「 刑事政策学派の指導者 」ということが一般的だが、「理論刑法の学者としても第一流であった」。  なおリストは、音楽家のフランツ・リストとは「従兄弟になる」。リストの父と音楽家とは特に仲が良かったため、「刑法学者は音楽家に可愛がられて大きくなった」。刑法学者が音楽を通じ国際文化に触れたことは、「その一生涯を通じて国際主義者として生きぬいた」要因となった。  「二 刑事政策学派の発展」  リストの刑事政策は、二つの思想「一つは 社会防衛 、他の一つは法的安全の思想」の上にある。刑罰の任務、目的は、犯罪人を社会に適合させるかそこから淘汰するかのいずれかであるが、「制限のない合目的的な処置」を彼は拒否する。具体的には、「行為となって現れない犯罪的意思」の処罰や、「法律が犯罪としない反社会的行為」の処罰は許されないとした(「 刑法典は犯罪人のマグナ・カルタである 」)。  リストの理論には、「構成要件にしばられる刑法理論」(「法的安全と行為」)と「行為者だけを眼中において構成せられる刑事政策」(「社会防衛と行為者」)との間に緊張関係、 二元主義 が見られるー「『刑法は一方の手を犯罪人に対して脅迫的に突出し、他方の手で犯罪人をかばう』(イェーリング)」ー。  リスト刑事政策の中心思想は、「改善可能者を改善し、改善不能者に対しては犯罪を行うことができないような処置をとる」というものだが、「改善可能を誇張することに反対し」「 教育刑に対しては控目 」な態度を取る。また改善不能者に対しての不定期刑については「極めて厳格な態度」をとり「社会防衛のための厳重な拘禁」を主張した。  「三 刑法理論学者リスト」  リストの刑法理論は「 客観主義 」(刑事政策では社会防衛が重要)であり、刑法では、「 法的安全の思想 」「裁判官の専断から犯罪人を保護すること」が重要であるとした。そしてリストの理論においては、犯罪の成立に「行為、違法、責任、構成要件の四つ」が必要とされ、犯罪は「客観的な行為として、 外界に現れた意志変化

瀧川幸辰「刑罰」

 「一 刑罰の本質」  刑罰は、犯罪(悪行)に対する応報(悪報)であり、「善行に対して褒美が与えられる」のと同じ関係にある。「『 汝から出たものは汝に帰る 』」のであり、ここに言う「悪行に対する悪報の要素を備えていない刑罰は、いつの世にもなかった」。応報は、「犯罪と刑罰を結びつける 唯一の普遍的な要素 」である。 「二 刑罰の存在理由」  刑罰の存在理由を論証したのはヘーゲルである。「法の否定である犯罪を重ねて否定して、法を復活させる」そこに刑罰の存在理由が成立するという。つまり、「 刑罰は法の否定の否定である 」。  なお、ヘーゲルの見解は、カントに比べると「一つの進歩であると考えられる」。カントは、「ただ、犯罪という悪のために刑罰という悪を加える」、そして「犯罪があれば必ず刑罰を科さねばならない」とする。それに対してヘーゲルは、ただ単に悪を犯したので更にこれに悪を加えることの不合理性を宣言したが、そこに「近代的感覚」が見られるからである。  「三 刑罰の苦痛性の理由付け」  ヘーゲルによれば刑罰は苦痛であるが、犯罪に対する反動として是認せられる根拠はどこにあるか。ヘーゲルはこれに答えていないが、「 苦痛の贖罪作用 がこれに答える」。  この苦痛によって「犯罪はつぐなわれ、責任は解除せられて、社会は元の清らかな状態に復する」。苦痛の贖罪作用は「世界史上意味の深い思想の一つである」。文芸作品が罪と罰を題材とする理由も、この思想が「人性に深く根ざすところの要求に合する」からである。「ヒーローの悲劇的責任」がつぐなわれて「美と調和が成り立つ」。「罪のないのに苦しむ悲劇」に芸術的に価値のないわけは、「罪をつぐなうことに」「美をもたらす力があるからである」。「刑罰の責任解除」も、悲劇における罪と罰の関係と同様のものがある。  瀧川幸辰『刑法講話』新版(1987年、日本評論社)235-239頁。

原田尚彦「裁量権収縮論」

 「一 法治行政と行政便宜主義」  行政庁は、公共の安全と秩序を保持する責任を負い、「そのために国民の権利自由に規制を加える権限を有している」。そしてこの権限は、「行政法規の授権するところに従い、法規にそって行使しなければならない」( 法治行政の原則 )。但し、授権がある場合でも「権限発動の要件が、法文上裁量事項」とされているときは もとより 、「厳格な羈束条項として定められている」ときであっても、取締権限を行使するかは「行政庁が公益管理の視点から 独自の裁量によって決定 すべき」と解されていた( 行政便宜主義 )。 「二 『裁量権収縮論』の意義」  行政便宜主義を厳格に適用すると、行政庁の取締権限不行使の結果、損害が発生しても「行政庁の不作為が違法となることはありえない」し、実際に損害が発生しても「国家賠償を求めること」も、また損害予防のために「あらかじめ取締権限の発動を請求することも」許されない。  しかし、行政庁が取締権限を与えられているのは、公共の安全と秩序を保持する公益目的のためばかりでなく、「 国民各個の法益保護 」も行政権行使の目的とされている。そこで、「行政庁が取締権限を適切に行使しさえすれば」国民への被害発生は防止できたであろうのに、「漫然とこれを怠り甚大な被害を発生」させた場合、行政庁の態度を違法と評価し、その「怠慢に対し責任を追求できる道」が必要となる。つまり、行政便宜主義の下でも「例外的に行政庁の不作為を違法とする論理」が必要であり、それが「 裁量権収縮論 」ほかならない。  裁量権収縮論によれば、取締権限についての「行政裁量の幅は、四囲の具体的状況との関連で限界づけられる」。この幅は、「同一の法律状態の下でも」、事実面で予防すべき危険性が増大し危険な結果発生の可能性が高くなるほど狭くなる。そして「危険がかなり甚大となって取締権の発動が緊急不可欠と認められるような状況」が発生した場合、「 裁量の幅は、ついに零に収斂 して、行政庁には取締権の行使が義務づけられる」ことになる。  裁量権収縮論は、具体的事実と関連付け法規を解釈し、行政庁の取締権発動についての「 決定権限の独占を制約 」することで、取締権発動のイニシアティブを「ある範囲で国民の手に留保し」、国民の法益保護のためについて権力を行使させる法的手段を「 国民の手に確保する 」説、だと言え

原田尚彦「行政行為と行政処分」

「 一 行政法上の概念の特殊性」  同学他科目の教官から、行政法学における行政行為と行政処分の概念は同じなのか異なるのか、異なるならどちらが広い概念か、という質問を受けた。今現在、「真面目に行政行為と行政処分の概念を追求する」としたなら、どう説明するのが一番適切か。 「二 従来の用語例」  美濃部達吉、佐々木惣一共に、「行政行為には」、「行政処分のほかに、 公法上の契約を含む 」とされている。そして「行政行為を 行政処分の上位概念 として把握され」その上で行政行為全般に通用する効力を説かれているようである。  戦後において田中二郎は、「公法上の契約を行政行為から除外されている」。そして「行政行為と行政処分を 別段区別されていない 」。  「三 『処分』概念の意味」  学者により用語の使い方は様々であって、「〇〇教授の所説はこうであるなどと、仰々しく並べ立てても、さして意味はない」。「丸暗記する必要などは、まったくない」。ただここで注意したいのは、「戦前の学説は」、行政行為や行政処分の概念を「講学上の概念として構成し」、これを「 行政活動の理論的分類 」に用いてきた。  それに対し、昨今では「行政行為概念の方は」「講学上の概念であり、ある種の行政活動に付随する 法的特徴を統一的に表現するための目的概念 」とされ、行政処分概念は「 実定法の規定に結びついた法律上の概念 」として用いられている。というのは、行政不服審査法や行政事件訴訟法には「処分」という言葉を用いる規定があり(1条、3条2項)、そのため「行政処分という概念は 右の規定でいう『処分』と同義に用いられることが多い 」のである。  なお戦前にも「処分」という言葉を有する法令もあった。しかし戦前の行政争訟は「 列記主義 」を採用していたため、争訟の対象は「個別法規の解釈で用意に確定することができた」。これに対し現行法は「 概括主義 」を採用しているため、「現行法のもとでは」取消訴訟の対象となるものの「判定が、比べものにならないほど重要な一般的な法解釈上の問題」となった。その意味で、行政処分概念は、「取消訴訟の対象性を示す実定法上の基礎概念として」法解釈上極めて重要な意味を持ち、「 取消訴訟の対象性を表象する法概念 として通常用いられていることに注意」したい。  「四 行政処分とは、行政行為のことか?」  こう考え

幸徳秋水『帝国主義』2

 「第3章 軍国主義を論ず」 軍国主義の「原因と目的」 「防御以外」「保護 以外にあらざるべからず 」。  軍備拡張の原因 「一種の狂熱」「虚誇の心」「 好戦的愛国心のみ 」。  甲「平和を希う」乙が侵攻しようとしている、乙「平和を希う」甲が侵攻しようとしている:「 世界各国皆同一の辞を成さざるはなし」 。  各国民は、「童男童女が五月人形、三月雛の美なるを誇り多きを競うが如く、その武器の精鋭とその兵艦の多きを競いつつあり」。 軍国主義者 「美術や科学や製造工業」「 戦争の鼓舞刺激 なくして能く高尚なる発達をなすは稀り」。  「我は戦争が社会文芸の進歩」を妨害するのを見たが、社会の発達を助けるのを見なかった。「『 膺てや懲らせや清国を 』という軍歌をもって我は大文学と 名くるを得ざるなり 」。 軍国主義者 「刀槍艦砲」の改造進歩は戦争のおかげ。  これは「科学的工芸進歩の結果にして」平和の功績。仮に戦争の功績としても、 国民の智識道徳の進歩 に貢献するところあるか。 軍国主義は「社会の改善と文明の進歩に資するを 得る者にあらず 」。「戦闘の習熟と軍人的生活は」、「決して政治的社会的に人の智徳を増進し 得る者にあらず 」。これを残す「 弊毒実に恐るべき者あり 」。軍国政治が「行わるる一日なれば、国民の道徳は一日腐敗するなり」。「暴力の行わるる一日なるは、理論の絶滅一日なるを意味するなり」。  cf.ドレフュス事件におけるような「暴横なる裁判」は、「陸軍部内にあらざるよりは、 軍法会議 にあらざるよりは、 決して見ることを得ざる ところなり」。「普通民法刑法の いやしくも許さざるところ 」。 「未だ軍備と徴兵が国民のために一粒の米、一片の金をだも産ずるを 見ざるなり 」。科学文芸宗教道徳の高遠な理想を「 破壊し尽くさんとする 」。 個人は武装を解かれているのに国家はそれができない。個人は暴力決闘が禁止されているのに国家はそれをできない。「二十世紀の文明はなお弱肉強食の域」を脱することができない。各国民が猛獣毒蛇の状態にあるのは恥ではないか。「 これ社会先覚の士が漫然看過すべきのところなるか 」。 幸徳秋水『帝国主義』(2004年、岩波文庫)51-84頁。

幸徳秋水『帝国主義』

  「第2章 愛国心を論ず」 帝国主義 「 軍備 」「軍備を後援とせる外交のこれに伴わざるはなし」。  愛国心、軍国主義 「列国現時の帝国主義」にとって 通有 の条件。  愛国心が愛する 対象  「自家の国土」「自家の国人」「自家一身」。 愛国主義 「憐れむべき迷信」「好戦の心」「虚誇虚栄の広告」であって「 先制政治家 が自家の名誉と野心に達するの利器と手段に供せられる」。  「国民の愛国心」 一旦その好むものにさからうと「 人の思想をすらも束縛 」し「歴史の論評をも禁じ」「総ての科学をも粉砕」してしまう。文明の道義はこれを恥とするが、愛国心はこれを「栄誉とし功名とする」。cf.「 愛国的ブランデー 」   軍人 と愛国心 軍人は国家のために戦うというが、彼らの国家とは「皇上あるのみ、 軍人自身あるのみ 」。戦いの結果、軍備拡張、物価高騰、輸入超過「曰く国家のためなりと。愛国心発揚の結果は頼母しきかな」。敵人の生命、地、財を多く得ても、これのために政府の歳計「2倍、3倍」となる。愛国心発揚の結果は頼母しきかな」。   ① 「迷信を捨て智識」に、「虚構を捨て真実に」に、「好戦の念を捨て博愛の心」につく。これ「 人類進歩の大道 」。  ② 「愛国心に駆使せらるる国民」 「 品性の汚下陋劣 なる」、「高尚なる文明国民をもって称すべからざる者」。  ③ 政治、教育、商工業をもって愛国心の犠牲となさんと努る者 「文明の賊、進歩の敵」、「 世界人類の罪人 」。 「文明世界の正義人道は、決して愛国心の跋扈を許すべからず」。「卑しむべき愛国心は」「軍国主義となり、帝国主義となって、 全世界に流行するを 」。 幸徳秋水『帝国主義』(2004年、岩波文庫)19-50頁。

団藤重光「滝川幸辰博士の想い出」

 滝川幸辰博士の生涯を一語か二語で表すなら、「おそらく『 闘争 』と『 激情 』ということばがいちばんふさわしいであろう」。博士は、アンゼルム・フォイエルバッハのことが好きだったようで、「火山にたとえられたかれの激情的性格と闘争的精神がおそらく博士の共感を呼んだにちがいない」。  博士の「学者的精神」は、学生時代の「わが国における大学自治の歴史上、まさに特筆に値する事件」であった沢柳事件の中で養われていった。そして後に、博士自身が中心となり「 京大事件 」がたたかわれた。事件において、博士は当局からの辞職要請に「頑として応じられなかった」し、京大法学部も一致して学問の自由のために行動した。最終的に、 鳩山一郎 文部大臣は、文官分限委員会の開催を要求し、博士は休職となった。これに対し、法学部の教授助教授助手副手は「即日辞表を提出し、京大法学部はしばらく壊滅状態となった」。これは「 旧日本が自滅の道をたどる過程のひとこま であったといってよい」。  敗戦後、博士は法学部長、総長を務めた。学部再建のため「かなり思い切ったこともされたらしい」。この過程で、筋を通すために「敵を作ることも、博士の意に介するところではなかった」。   博士は、小野清一郎博士とともに、古典派刑法学の代表者であった。共に構成要件理論を前提にしつつも、両者の学説の背景などははっきりと異なっていた。小野博士を「仏教的」とすれば、「博士のそれは無宗教主義的であり」、「前者を普遍主義とすれば後者は個人主義・自由主義であった」。博士は京大時代、勝本勘三郎博士の講義を聞かれた。勝本博士が有名な刑法学者の逸話を紹介するのが面白かったようで、後にフォイエルバッハを紹介する本を読むことになったが、それが刑法学者を志すきっかけになったとされる。  「 闘争と激情は、博士の一生を支配した 」。「最後に心筋こうそく症が一瞬にして博士をこの世からうばった」。 団藤重光『わが心の旅路』(1986年、有斐閣)342-352頁。

小浦芳雄「ほんみち事件」

   「治安維持法違反として」  ほんみち幹部らを取調べた予審判事の立石金五郎という人が、「新興宗教はみないんちきや、そういう観念をもっていた」と言っていた。ところが彼は、ほんみち信徒を取調べているうちに、「ぼくの心境が変わってきた」。「ひょっとしたら、機縁があったら、ほんみちを信心したかわからん」ときた。  彼は続けて、ほんみちが正しいか間違っているかを判定する材料があると言った。第2次世界対戦、大東亜戦争の結末がそれである。今回の戦争で日本が勝てば、「 事実上日本の天皇が東洋の天皇になろう 」。こうなれば僕らの勝ちで「 お気の毒ながら甘露台さんは負けだ 」、「戦争に失敗した場合は、残念ながら甘露台さんの勝ちだ」、と。これに私も大賛成した。なお当時の裁判長で僕達は負けたという裁判官がいた。「ほんみちは 真理の戦いにおいて日本帝国に勝った 」、と。これは自分もそのように思う。  「弾圧下の教団」  この事件の対象となったほんみちの目的はどうだったか。「大日本帝国では、天皇は現人神である、万世一系で、天壌とともにきわまりなかるべし」だったが、 この考えは一口で言えば迷信 であり「迷信を打破しよう、そして日本を救おう」これであった。「天皇にさえすがっておったらというような、それはとんでもない迷信」の「 ご利益がなかったということは大東亜戦争で分かった 」。天皇の「人間性」(人間宣言)を国民が知っていたら「大東亜戦争は起こらなかっただろう」。これらをしらそうとしたのがほんみちであり、大東亜戦争を防止するのが目的であった。  そして日本の敗戦について言えば、これは「 少年時代のがき大将がいばっておったのといっしょ 」であるが、これはプラスにはなれこそマイナスにはならない。迷信を打破でき敗戦により日本人は反省を知ることとなった。「もし大東亜戦争に負けなかったら、 日本人はどこまでも風船のように思い上がっていくかもしれません 」、「それこそ恐ろしい」。 小池-西川-村上編『宗教弾圧を語る』(1978年、岩波新書)132-134頁、153-154頁。太字部分はこちらが付したもの。

山崎鷲男「ホーリネス教会事件」

問 宗教弾圧をした人たちの戦後の釈明、生き方如何。  驚くべきことに、私を弾圧した警察の者は「政治だよ」と放言した。政治が悪かったことにして終わりにするという「 国全体が、天皇を頂点として無責任体制だった ということ」である。 問 戦争責任に対する反省と日本人の国民性の問題如何。  「当時の国民が『 長いものには巻かれろ 』 式の発想 」 を持っていた ため、結局指導者による戦争への道を許してしまった。また日本人の宗教感覚は「きわめてあいまい」だったため、「宗教人の命がけの信仰も容易に理解されず」、「神格天皇という観念もまるで昔からずっとあったように錯覚していた」。 問 日本人の神、国家に関する考え方の再検討の必要性如何。  自分の信念に従い行動することが、「 一般に非常に弱い 」。だから政治のせいにして「平気でおれる人がおおい」。 問 靖国神社法案を巡る日本人について如何。   政治と宗教の関係を正しく認識できず、自分の認識の範囲で物事を判断し、「 反対する人間を結局抹殺し、非日本人扱いしてしまう 」こととなる。残念ながら本人は、「 国家に忠勤を励んでいると思いこんでしまう 」面もあり、非常に厄介である。天皇は霊的存在ではなく、神格化ということもおかしい。人間の側から神として祭り上げているだけである。また「戦没者は『英霊』ではない。 たんに美化している 」にすぎない。  天皇による公式参拝問題も、「偉い人を招いて権威づける 日本人の習性 」があってのことと思われる。「とにかく 宗教と政治との峻別をきちんとすること 」が大切である。   問 ホーリネス弾圧をいかすための今後の課題如何。  戦前の宗教弾圧につき、損害賠償をなぜ請求しなかったと問う者もいたが、「その賠償をするのはいったい誰」か。「このような弾圧に協賛した 国民にもその責任がある 」のではないか。宗教弾圧の責任は、特高警察や当時の政府ばかりでなく、誤った軍国主義、「『長いものには巻かれろ』といった事なかれ主義」、正しくない宗教理解認識と無知にある。「 むずかしいのは国民の物の考え方の是正 」である。 小池-西川-村上編『宗教弾圧を語る』(1978年、岩波新書)180-188頁。太字部分はこちらが付したもの。

丸山眞男「日本の思想」

   「思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化され」ず、ある論争が「共有財産となって、次の時代に受け継がれて」ゆかないという伝統が、日本の論争史にはある。論争において、「これだけの問題は解明もしくは整理され」何がそうでないか「けじめがいっこうにはっきりしないままたち消えになってゆく」。そのため後に実質的に似たような論争が起こると、「前の論争の到達点から出発しないで」また振り出しから始まることになる。  また日本においては、、「新たなもの」が「過去との十全な対決なしにつぎつぎ摂取される」ため、「新たなものの勝利はおどろくほど」早い。違った文化からの新たなものは、徹底的に自己と違うものとして意識されず、明治以降の「もの分かりの良さ」によって「外国文化を吸収してきた『伝統』」があるため、「『知られざるもの』への感覚」がほとんどなくなり、「すぐ『あゝあれか』ということになってしまう」。  西欧やアメリカでは、「民主主義の基本理念とか、民主主義の基礎づけ」とかが「繰返し」議論されている状況は、 「戦後数年で『民主主義』が『もう分かってるよ』という雰囲気であしらわれる日本」の状況と驚くべき対照をなす 。 丸山眞男『日本の思想』(1961年、岩波新書)6-8頁、11-16頁。太字部分はこちらが付したもの。

田中伸尚「克服されざる過去の中で 1969〜1974年」

「『自治会神道』との闘い」  「自治会と神社」の関係で「『民衆の靖国』の一つの相貌」を見たのが浜松市のM氏だった。M氏は、「自治会役員が、地域の神社の秋祭りに寄付を集めに訪れた」際、自身がクリスチャンであることを理由に寄付を断ったあたりから、自治会と神社の関係に疑問を持ち始めた。そしてM氏は後に回覧板で、①神社の祭りが自治会主催である、②自治会役員は祭りの実行委員になる、③一世帯あたりの平均寄附金額、等を知った。  M氏は後の調査で、「自治会費から神社維持費、祭典費が支出」されていること、自治会会則に、神社の祭典を自治会主催で行うことや「氏子総代が自治会の役員会に出席」する旨の規定があることを知った。そして「自治会会員は自動的に全員氏子にされていた」。その結果、組織、財政、維持管理、宗教儀式の「あらゆる面で自治会と神社が一体化した関係にある」ことがわかった。 M氏は、神社と自治会の関係を「『自治会神道』」と名付け、自治会長らに神社と氏子を分離すべき旨主張したが事態は改善されなかった。  それどころかM氏は、自治会長から「『個人の宗教と公の宗教を混同されています』」と反論を受け、神社が町の公の宗教である、また「『神社に反対するようなやつは日本人じゃない』」と非難され、後に自治会退会に追い込まれ、M氏のもとには市の情報が届かなった。この点M氏からの抗議を受けた浜松市長は、神社は宗教ではなく、自治会からの脱会は自由の履き違えと反論した。なお浜松市については、自治会や靖国参拝のための市遺族会に補助金が出ており、市職員も参拝に随伴していることが後に判明した。  このような経過の後M氏は、このような構造を支えるのが「民衆の『自治会神道』」にあると確信し、住民監査請求を起した。それが却下されたため本訴を提起するが、本案審理の前に動きが起きた。遺族会は市職員随伴を返上、市内の自治会をまとめる自治会連合会は神社と自治体を分離するよう各自治体に通知、浜松市は遺族会への補助金支出停止と自治会への補助金の使途については政教分離に反しないことを文章で約束し、事案は解決したかのように見えた。  しかし「『民衆の靖国』は、この社会に根を下ろしていた」。 何年かすると、また神社の祭典の通知文書が自治体経由で回ってきた。M氏は、2001年あたりで「『自治会神道』はほとんどの地域で崩れていない」との認

美濃部達吉「国家及び政体」

「第一講 国家および政体」 「一 国家の性質」 「国家は法人なり」  「法律上から見て、国家は一つの法人である」。これは国家が権利能力を有することを意味し、「国家はあたかもそれ自身一つの人」のように「権利能力を有しその権利能力に基づいて種々の権利を享有する」。 「国家の権利の二大種類」  国家が享有する権利は大別して2つある。第1に「財産権」、第2に全人民に命令強制ができる「統治権」である。前者を「国家の私権」と言い、後者を「国家の公権」と言う。 「主権の三種の意義」  主権の意義として、第1に「最高権」(「国家の権力それ自身が最高であること」)、第2に「統治権」、第3に「国家内における最高機関の地位」の3つが挙げられる。第3の意義における主権は、「国家内において何人が最高の地位にあるか」を示すものであり、国民主権の場合「国民が国家の最高機関である」事を言うのであり、君主主権の場合「君主が国家内において最高の地位にある」事を言う。  なお君主主権は、「決して君主が統治権の主体であるという意味ではない」。統治権は国家の権利であり、君主の権利でも国民の権利でもない。 「第二講(下) 天皇(その一)」 「一 天皇の国法上の地位」  「天皇は国家の最高機関なり」  言うまでもなく、天皇は日本の君主として、国家権力すべての「権力の最高の源泉」であり、日本の「最高機関の地位」にいる。  「君主が統治権の主体なりとする説の誤謬」  法律上ある権利を有するとは、その権利がその人のためにあり、その権利に基づく行為は、法律上その人の行為たる効力を有するということを意味する。つまり君主が統治権の主体ということは、統治権が「君主の御一身の利益のために存する権利であり」、統治の行為は「君主の一個人としての行為」であるということを意味する。  しかしこれは「我が古来の歴史に反し我が国体に反するの甚だしい」。 君主が御一身の利益のために統治権を有するなら、統治権は君主自身の目的のために存し、君主国民が目的を異にし「国家が一つの団体であるとする思想と全く相容れない」(例、租税を課すことは君主自身の利益のためではない)。また法律や勅令は君主一個人の行為ではなく、国家の行為である。だからこそ「これらのものはいずれも君主の崩御にかかわらず永久的の効力を有する」。  国家が統治権の主体であって、君主は国家

宮沢俊義「信教の自由」

第三節 信教の自由 「1 『神社は信教にあらず』」 ① 旧憲法は、「神権天皇制をその根本義とし」、「天皇の祖先を神々として崇める宗教」つまり「神社または惟神道」を他の宗教と同等に扱うことを好まず、特に「天皇崇拝の精神的基盤」を固めるため、神社に「国教的性格を与える」ことを必要と考えた。「こうして国家神道が成立した」。 ② しかし明治憲法が、信教の自由を定めることと「神社を国教的に扱うこと」とは、明らかに矛盾する。そこで当時の政府は、「『神社は宗教にあらず』という命題」で、この矛盾を解消しようとした。神社は「単に祖先の祭りというだけのもの(!)であり、憲法にいう宗教ではない」。故に神社を特別に扱い、これに公的な地位を認め、国民に神社への参拝を強制させても、信教の自由には関係ないという説明であった。 ③ しかし、神社が宗教であることは明らかであるから、この説明では、旧憲法の信教の自由は「神社を国教と認めることと両立する限度においてのみ」認められていたということを意味するにすぎなくなる。そして旧憲法の末期には「神社国教制が公然と支配する」に至り、「『神国日本』だとか『神州不滅』」だとかの掛け声の下に、狂信的な神国主義が、日本を支配した」。 「2 宗教の自由」  降伏は「かような神国主義に終止符を打った」。そして、天皇が現御神たることを否定する詔書(1946年1月1日)は、「『人間宣言』として注目された」。これは天皇が「あらゆる神々から絶縁したことを宣言」したものと解される。もっとも、日本の降伏により、天皇主権が否定され、国民主権が確立されるとともに既に天皇の神格は否定されていたのであって、この証書はこの旨を確認的に宣言したにすぎないと解される。 「3 政教分離」  信教の自由の保障を完全にするために、「国家と宗教とを完全に絶縁させる必要がある」。つまり宗教を「まったくの『わたくしごと』にする必要がある」。これが政教分離である。明治憲法下では「反対に政教一致が原則とされていた」。  以前保安隊(後の陸上自衛隊)の隊員が、隊内に皇大神宮と靖国神社を祭神とする神社を建築したが、後に第一管区総監の指示の下撤去されたという事案があった。これに対し「神社方面から強い抗議」があり、上記措置は「信教の自由の原則に反すると主張したが、むしろその反対である」。憲法は信教の自由のために、「国有

ハンス・ケルゼン『民主主義の本質と価値』

「多数決原理」 比例代表制 ① 各党が得票数に比例して発言力を持つように構成された選挙制度は、選挙行為の主体を「全有権者ではなく、部分有権者集団」にする。この集団は、「共通の政治的信念を持つ者の全員」によって構成される。 ② この有権者集団は、多数決原理の支配下にある有権者集団と性質を異にする。比例代表におけるある党への投票数は、他党への投票数と「敵対するものではなく、それと併存するものである」。比例代表の理想形態においては、多数対少数ということが存在せず、敗者も存在しない。比例代表によって選ばれた議会は、有権者全員により選ばれたもので、全員一致で選ばれたということになる。 ③ この結果、比例代表の核心的原理たる「根源的民主主義の原理」が明らかになる。「比例の理念は民主主義のイデオロギーと接合」し、これを実現する場合は、「議会主義」の形態を取る。なお仮に、議会選挙に多数決制度が純粋に適用されると、議会には多数派代表のみが存在し、少数派代表は存在しないことになる。これに対し比例代表には、「議会に反対派をも存在させる工夫の合理化」という意義がある。そしてこの少数派(反対派)が、多数者意志形成に及ぼす影響力は、議会における少数派の勢力が大きいほど重要力を増す。こうして比例代表は、「自由への趨勢」、多数派の意見が無限に少数派の意見を支配することを阻止する趨勢を強化する。 ④ 比例代表制に対しては、「小党分立の危険をもたらす」という批判がある。「確かに議会に絶対多数を持つ政党がなくなり」、「多数派形成を極めて困難にする可能性」はあり得る。しかし比例代表は、この点「政党間の協力を不可避」とし、議会において「 最重要の共通関心事において結合する必要性」を議会の場にもたらす。このような「政党間協力を基礎とする政治的統合は、社会技術的」には「進歩」である。 ⑤ そして比例代表下では、「単一集団の利害が国会意志になる」のではなく、政党に組織された「複数集団の利害が、一つの手続きを通じて互いに角逐し、やがて妥協的決着を見る」ことになる。比例代表制を基礎とする議会手続は、あらゆる党派の自己主張と相互競争、諸利害間の妥協を保障するものである。 ハンス・ケルゼン(長尾、植田訳)『民主主義の本質と価値』(2015年、岩波文庫)78ー84頁。

宮沢俊義「独裁政理論の民主的扮装」

① 「政治闘争における『扮装』」 あるべき国家、政治形式に対する解答は1つの政治闘争に関するが、この「解答」は「扮装」を身につける場合がある。そこで、扮装が扮装であることを認識し、「その扮装の背後にある現実をそのまま把握」することが必要である。 ② 「民主政・議会政の否定」 民主政とは「被者と被治者との自同を原理とする国家・政治形式である」が、一方独裁政はこの自同性を否定する。つまり、現代(昭和9年あたり)の欧州における民主政、議会政否定論は、「独裁政の提唱」である。議会政は「いうまでもなく民主政の最も通常な現実形態」だから、「議会政の否定は当然に民主政を否定」することになる。 ③ 「扮装における『民主政』」 「民族共同体としての国家」独裁政論は、これらが否定しているはずの「民主政の扮装の下にあらわれる」。ケルロイターによれば、国家学の出発点たるVolk(民族)は、「政治的に形成的に・構成的に活動することはできない」ので、「民族と一体と感じ」、「自己の意志に代表的作用を付与しうるところの代表者による民族意志の現実化・具体化」としての「代表」を必要とする(民族的法治国)、とされる。 ④ 「『民族意志』と代表」 この民族的法治国概念は、その独裁的、権威的色彩にもかかわらず、なお民族や人民の概念の中で基礎づけられているように論じられる。あくまで第一次的なものが民族であり、独裁者、指導者は民族の代表のゆえに、反民主的なものではない、とされる。では一体VolkとかNationは一体何か。それが問題となる。 ⑤ 「選挙と喝采」 更に、どのように民族の代表を定め、「何にもとづいてある人間の意志内容をもって民族の意志内容」とするか。この点、国民は「喝采」により意志を表示でき、それは選挙よりも国民の真の意志がよく現れるという論者もいる。しかし選挙の当選者より、「Heil!の声によって『喝采』される指導者がなぜ国民意志を」よりよく代表すると言えるか。それは「それをただ信ずる者のみが理解しうる」ことであり、「信ぜざる者にとっては」喝采があろうとなかろうと、独裁者の意志は独裁者の意志にすぎない。 ⑥ 「民主政と議会政の峻別 独裁者の意志を国民の意志とすることの意味は如何。「それはひとえに扮装のためである」。独裁政が反民主的ではなく、むしろそれこそ民主的であることを示すためである。例えばスメ

横田喜三郎「条約は紙くずか」

  ① 「条約は紙くずだ!」 第一次大戦において、ドイツはフランスと交戦する。フランスはドイツとの国境を強固に防衛していたため、ドイツは、自国と接する国境防衛の手薄なベルギー経由でフランスに侵入しようとした(ベルギー、フランス両国の国境には防衛施設がない)。しかしこれは、「イギリス、フランス、オーストリア=ハンガリー、プロシア」5カ国で「ベルギーの独立と中立性を尊重」、保障した条約に反する。  そこでイギリスは、同条約を無視しベルギーに侵入するなら、ドイツに対し戦争する旨警告したが、ドイツは、これに対し「条約を紙くず」(ホルウェッヒ首相)視した。 ② 「無法な潜水艦戦」 ドイツの潜水艦は、第一次大戦中、商船を無警告で撃沈し続けた。「しかし、国際法は、軍艦が商船を無警告に撃沈することを認めない」。商船はあくまで平和目的のものであり、敵国商船に対しても攻撃できない。あくまで捕獲の際、停船や臨検捜索を拒む場合に攻撃ができる。中立国商船についても、戦時禁制品を輸送している場合は捕獲し得るし、停船や臨検捜索を拒まれた場合は攻撃し得る。しかしこのドイツの攻撃は、これら国際法の規則に反する。この無警告撃沈行為によって自国民に損害を出したアメリカも、後に参戦した。 ③ 「不侵略条約を結んだのは、侵略するためだ」 第二次大戦中ドイツは、不侵略条約を結び相手を油断させてその上で相手方に侵入した。ヒトラーには「国家間の法として、それを守らなくてはならないという気持ちは、みじんもなかった」。 ④ 「真珠湾の不意打ち攻撃」。真珠湾攻撃と、明瞭かつ事前の「開戦の通告」を要求する、開戦に関する条約との関係はどうか。まず開戦宣言や最後通牒の通告がないため、同条約に内容面で違反する(実際なされた通告は日米交渉打ち切りの通告に過ぎない)。また通告は真珠湾攻撃の後になされたため、「時期」の点でも違反する。  私は、当時国際法の講義ではっきりとは言わなかったが、学生は開戦に関する条約の説明を聞いて、真珠湾攻撃が「条約違反であることは十分に了解したはずである」。なお後にこの話が伝わったようで、「軍部に協力的だった」法学部教授の「矢部貞治君は、その日記で、『横田氏は真珠湾攻撃は不法だなどと馬鹿げた発言している』と書いている」。 ⑤ 「やはり条約は紙くずでなかった」 条約を紙くずとした第一次大戦のドイツは、イギ

丸山眞男「政治学における国家の概念」

  ① 「市民社会と個人主義的国家観」 封建社会を排除し誕生した市民社会の主人はいかなる国家観を担うか、また、この国家観の基礎にある世界観はなにか。まず、この市民社会は「経済社会」と捉えられる。ここでは、商品生産から商品交換までの流れを成立させるため、「平均人」の概念や、「抽象的な平均労働の所産」としての商品という概念を用いて「合理主義的還元」が行われるが、その結果、市民社会における経済活動に「見透し」が可能となる。  つまりここでの「思惟様式は合理主義的実証主義」であり、対応する国家観は「個人主義的国家観」(「あらゆる社会的拘束から脱却した自由平等な個人」を最終的な実在とみなし、一切の社会関係を個人の相互関係から説明し、その相互関係の保障を国家主権に求める国家観)となる。 ② 「市民的国家観の転向」 1870年から1890年の間に、産業、商取引、金融の各資本は大金融家の下におかれ、この独占的結合の結果生み出される過剰資本は世界市場を巡って争うことになる。ここで資本主義は独占金融資本の段階になるが、それは「帝国主義時代」でもある。結果、「市民層と国家権力とは急速に接近」し、「新植民地」を求める「資本の先頭には常に軍機が翻るに至った」。  その後、帝国主義「列強の対立は1914年に爆発」するが、大戦後もなお続く、国内「独占資本の寡頭支配」は政治経済の民主化と調和せず、一方国際機関も「帝国主義列強の対立を抑止」し得ない、その上恐慌が加わり、内外での「矛盾が一層先鋭になる」。この結果誕生したのがファシズム独裁である。 ③ 「ファシズム国家観」 ファシズムは、「独占資本の極度に合理化された寡頭支配形態」であり、「一方の極に絶対的な国家主権、他方の極に一様に均された国民大衆」という実態を有する。これは「市民社会の本来的な傾向の究極にまで発展したもの」である。そして「ファシズム国家観の出発点は常に民族乃至は国民」であるが、ここでの「民族」(精神)は「指導者人格の創造的形成のなかに精神的に展開」されると解された(ラレンツ)。但し、この指導者による「創造的形成」と「民族精神」が結びつく理由は、「全く信仰に委ねられる」。このようにファシズム国家観では、「基礎構造の合理化が極端になればなる程、それを非合理的なヴェールで覆う」ことが必要とされる。 丸山眞男『丸山眞男集』第1巻(1996年

佐藤幸治『憲法訴訟と司法権』

  「違憲判決の効力」 ① 違憲判決の効力における個別的効力説によって重視される付随的審査制の「趣旨を厳格に貫けば」、裁判所による違憲審査は「その訴訟事件の事実関係限りにおいてのものとみるべき」(「適用審査」)ということになる。 ② そして、この適用審査を前提にすると、「その事件に適用された限り当該法律(規定)を違憲無効とする」という結論が出てくる。しかし、当該法律が「相当な適用範囲にわたって憲法上保護された行為を規制するような場合」や、「そもそも憲法からみて容認できない発想に立ってできているような場合」、それでも「審査は当該事件の事実状況限りのもので」、「違憲の効力も当事者限りである」というのはどれほど論理的な結論であろうか。 ③ そのため適用違憲を前提にするとしても、「適用審査による当事者限りの違憲無効」という場合のほか、適用審査を出発点としつつ「重大な欠陥を持つ法律そのものを非とし」その適用を一切認めない「適用審査に基づく文面上違憲無効」の場合も考えられる(そしてこの2つに漠然性、過度広範性との関係で問題になる「文面審査による文面上違憲無効」の場合が加わる)。 ④ つまり最高裁による違憲判決の効力は、「当該法律を法令集から除去せしめるような効果を持ちえないが」、ときにその事件のみ適用されると断らない限り、「一般的に無効にしてもはや誰に対しても適用されないという趣旨を含意しているもの」と解すべきではないか(実質的一般的効力説)。 ⑤ なお違憲判決の遡及効ということについては、当事者遡及効が基礎とされるべきであるが、当事者以外に対する遡及の可否や将来効判決の可否の問題がある。 佐藤幸治『憲法訴訟と司法権』(1984年、日本評論社)202-228頁。

芦部信喜「憲法学を学ぶ-私の憲法40年-」

 ① 「憲法の規範と現実」 「これから憲法を勉強していく場合に」、規範は現実との関係で意味を持つので、「規範と現実のかかわり、その両者の関係を絶えず念頭に置いて勉強してほしい」。その際、「いたずらに政治論、政治論的な解釈に惑わされないで、冷静な目で現実を見詰める態度」が要求される。 ② 「憲法解釈と社会・歴史」 憲法解釈をする際、法律解釈の一般論に加えて、政治社会歴史を見る目「そういう目を持つことが必要になる」。その上で「法の趣旨、目的を活かす方向で解釈していく心構えが必要」。そしてこの姿勢とともに、「憲法の最高法規性」即ち「憲法は権力を拘束する」という憲法の「理念的な側面」と「法の実効性」を「同時に堅持していくことが必要」である。また、解釈の際、「憲法の規定の中に異なる種類のものがある、つまり「憲法の規定の意味が、本来歴史的にほぼ内容が確定している条項」と、条文自体の現代的意味がわからない「社会に開かれている条文」があることに注意する。 ③ 「実質的憲法の理論-憲法に内在する基本価値-」 「憲法を護るにはどうしたらよいか」。憲法の実質的な意味(「権力を制限し、国民の権利自由を保障する法規範」)を中心に「政治あるいは権力から憲法の基本的なものを擁護していく」、「そういう憲法論の構成こそ憲法学に課せられた最大の課題」なのではないか。憲法を勉強していく場合、「『憲法とはなにか』あるいは『立憲主義とはなにか』という問いの意味とその答えの中身」をよく理解してほしい。 ④ 「憲法訴訟論の意義」 人権を争う際「観念的にただ条文を解釈するだけではなく」、「争い方自体を考えなければ勝てないのではないか」。違憲というために「どういう条文をどのように争うかをよく心得た上で争う必要がある」。そして法律の合憲、違憲を考える際に、その法律を支える「一定の社会的事実」「立法事実」を検証していく必要がある。 芦部信喜「憲法学を学ぶ-私の憲法40年-」『憲法叢説1憲法と憲法学』所収(1994年、信山社)141-165頁。