2022年3月14日月曜日

宮沢俊義「独裁政理論の民主的扮装」

① 「政治闘争における『扮装』」 あるべき国家、政治形式に対する解答は1つの政治闘争に関するが、この「解答」は「扮装」を身につける場合がある。そこで、扮装が扮装であることを認識し、「その扮装の背後にある現実をそのまま把握」することが必要である。


② 「民主政・議会政の否定」 民主政とは「被者と被治者との自同を原理とする国家・政治形式である」が、一方独裁政はこの自同性を否定する。つまり、現代(昭和9年あたり)の欧州における民主政、議会政否定論は、「独裁政の提唱」である。議会政は「いうまでもなく民主政の最も通常な現実形態」だから、「議会政の否定は当然に民主政を否定」することになる。


③ 「扮装における『民主政』」、 「民族共同体としての国家」独裁政論は、これらが否定しているはずの「民主政の扮装の下にあらわれる」。ケルロイターによれば、国家学の出発点たるVolk(民族)は、「政治的に形成的に・構成的に活動することはできない」ので、「民族と一体と感じ」、「自己の意志に代表的作用を付与しうるところの代表者による民族意志の現実化・具体化」としての「代表」を必要とする(民族的法治国)、とされる。


④ 「『民族意志』と代表」 この民族的法治国概念は、その独裁的、権威的色彩にもかかわらず、なお民族や人民の概念の中で基礎づけられているように論じられる。あくまで第一次的なものが民族であり、独裁者、指導者は民族の代表のゆえに、反民主的なものではない、とされる。では一体VolkとかNationは一体何か。それが問題となる。


⑤ 「選挙と喝采」 更に、どのように民族の代表を定め、「何にもとづいてある人間の意志内容をもって民族の意志内容」とするか。この点、国民は「喝采」により意志を表示でき、それは選挙よりも国民の真の意志がよく現れるという論者もいる。しかし選挙の当選者より、「Heil!の声によって『喝采』される指導者がなぜ国民意志を」よりよく代表すると言えるか。それは「それをただ信ずる者のみが理解しうる」ことであり、「信ぜざる者にとっては」喝采があろうとなかろうと、独裁者の意志は独裁者の意志にすぎない。


⑥ 「民主政と議会政の峻別 独裁者の意志を国民の意志とすることの意味は如何。「それはひとえに扮装のためである」。独裁政が反民主的ではなく、むしろそれこそ民主的であることを示すためである。例えばスメントは、自由主義とその現れである議会政に反対するが、議会政への反対は民主政への反対ではないとする。


⑦ 「自由主義と切断された『真の民主政』とは?」 このように民主主義と自由主義を区別する議論、特にヨーロッパ議会政の欠陥を自由主義のせいにし、自由主義を否定する議論は正しいか。そもそも民主主義は、反秩序的原理たる自由主義が積極的に国家や政治形式を基礎づける原理に転化したものであり、リベラルなものである。民主政でリベラルなものとされる言論の自由等は、「その欠くことのできぬ生命原理」である。つまり「リベラルでない民主政はもはや一般に民主政ではない。むしろ民主政の否定」であり、それは「多かれ少なかれ独裁的性格を帯びる」。


宮沢俊義「独裁政理論の民主的扮装」『転回期の政治』所収(2017年、岩波文庫)57-76頁。


丸山眞男「日本の思想」

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