2022年4月27日水曜日

田中伸尚「克服されざる過去の中で 1969〜1974年」

「『自治会神道』との闘い」

 「自治会と神社」の関係で「『民衆の靖国』の一つの相貌」を見たのが浜松市のM氏だった。M氏は、「自治会役員が、地域の神社の秋祭りに寄付を集めに訪れた」際、自身がクリスチャンであることを理由に寄付を断ったあたりから、自治会と神社の関係に疑問を持ち始めた。そしてM氏は後に回覧板で、①神社の祭りが自治会主催である、②自治会役員は祭りの実行委員になる、③一世帯あたりの平均寄附金額、等を知った。


 M氏は後の調査で、「自治会費から神社維持費、祭典費が支出」されていること、自治会会則に、神社の祭典を自治会主催で行うことや「氏子総代が自治会の役員会に出席」する旨の規定があることを知った。そして「自治会会員は自動的に全員氏子にされていた」。その結果、組織、財政、維持管理、宗教儀式の「あらゆる面で自治会と神社が一体化した関係にある」ことがわかった。M氏は、神社と自治会の関係を「『自治会神道』」と名付け、自治会長らに神社と氏子を分離すべき旨主張したが事態は改善されなかった。


 それどころかM氏は、自治会長から「『個人の宗教と公の宗教を混同されています』」と反論を受け、神社が町の公の宗教である、また「『神社に反対するようなやつは日本人じゃない』」と非難され、後に自治会退会に追い込まれ、M氏のもとには市の情報が届かなった。この点M氏からの抗議を受けた浜松市長は、神社は宗教ではなく、自治会からの脱会は自由の履き違えと反論した。なお浜松市については、自治会や靖国参拝のための市遺族会に補助金が出ており、市職員も参拝に随伴していることが後に判明した。


 このような経過の後M氏は、このような構造を支えるのが「民衆の『自治会神道』」にあると確信し、住民監査請求を起した。それが却下されたため本訴を提起するが、本案審理の前に動きが起きた。遺族会は市職員随伴を返上、市内の自治会をまとめる自治会連合会は神社と自治体を分離するよう各自治体に通知、浜松市は遺族会への補助金支出停止と自治会への補助金の使途については政教分離に反しないことを文章で約束し、事案は解決したかのように見えた。


 しかし「『民衆の靖国』は、この社会に根を下ろしていた」。

何年かすると、また神社の祭典の通知文書が自治体経由で回ってきた。M氏は、2001年あたりで「『自治会神道』はほとんどの地域で崩れていない」との認識を有していた。


田中伸尚『靖国の戦後史』(2002年、岩波新書)132-136頁。


2022年4月14日木曜日

美濃部達吉「国家及び政体」

「第一講 国家および政体」

「一 国家の性質」

「国家は法人なり」

 「法律上から見て、国家は一つの法人である」。これは国家が権利能力を有することを意味し、「国家はあたかもそれ自身一つの人」のように「権利能力を有しその権利能力に基づいて種々の権利を享有する」。


「国家の権利の二大種類」

 国家が享有する権利は大別して2つある。第1に「財産権」、第2に全人民に命令強制ができる「統治権」である。前者を「国家の私権」と言い、後者を「国家の公権」と言う。


「主権の三種の意義」

 主権の意義として、第1に「最高権」(「国家の権力それ自身が最高であること」)、第2に「統治権」、第3に「国家内における最高機関の地位」の3つが挙げられる。第3の意義における主権は、「国家内において何人が最高の地位にあるか」を示すものであり、国民主権の場合「国民が国家の最高機関である」事を言うのであり、君主主権の場合「君主が国家内において最高の地位にある」事を言う。

 なお君主主権は、「決して君主が統治権の主体であるという意味ではない」。統治権は国家の権利であり、君主の権利でも国民の権利でもない。


「第二講(下) 天皇(その一)」

「一 天皇の国法上の地位」 


「天皇は国家の最高機関なり」

 言うまでもなく、天皇は日本の君主として、国家権力すべての「権力の最高の源泉」であり、日本の「最高機関の地位」にいる。


 「君主が統治権の主体なりとする説の誤謬」

 法律上ある権利を有するとは、その権利がその人のためにあり、その権利に基づく行為は、法律上その人の行為たる効力を有するということを意味する。つまり君主が統治権の主体ということは、統治権が「君主の御一身の利益のために存する権利であり」、統治の行為は「君主の一個人としての行為」であるということを意味する。

 しかしこれは「我が古来の歴史に反し我が国体に反するの甚だしい」。 君主が御一身の利益のために統治権を有するなら、統治権は君主自身の目的のために存し、君主国民が目的を異にし「国家が一つの団体であるとする思想と全く相容れない」(例、租税を課すことは君主自身の利益のためではない)。また法律や勅令は君主一個人の行為ではなく、国家の行為である。だからこそ「これらのものはいずれも君主の崩御にかかわらず永久的の効力を有する」。

 国家が統治権の主体であって、君主は国家の最高機関であるということは、以上のことを言い表したにすぎないのである。

 

美濃部達吉『憲法講話』(2018年、岩波文庫)36-42頁、78-81頁。




丸山眞男「日本の思想」

   「思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化され」ず、ある論争が「共有財産となって、次の時代に受け継がれて」ゆかないという伝統が、日本の論争史にはある。論争において、「これだけの問題は解明もしくは整理され」何がそうでないか「けじめがいっこうにはっきりしないままたち消えになってゆく...