「第一講 国家および政体」
「一 国家の性質」
「国家は法人なり」
「法律上から見て、国家は一つの法人である」。これは国家が権利能力を有することを意味し、「国家はあたかもそれ自身一つの人」のように「権利能力を有しその権利能力に基づいて種々の権利を享有する」。
「国家の権利の二大種類」
国家が享有する権利は大別して2つある。第1に「財産権」、第2に全人民に命令強制ができる「統治権」である。前者を「国家の私権」と言い、後者を「国家の公権」と言う。
「主権の三種の意義」
主権の意義として、第1に「最高権」(「国家の権力それ自身が最高であること」)、第2に「統治権」、第3に「国家内における最高機関の地位」の3つが挙げられる。第3の意義における主権は、「国家内において何人が最高の地位にあるか」を示すものであり、国民主権の場合「国民が国家の最高機関である」事を言うのであり、君主主権の場合「君主が国家内において最高の地位にある」事を言う。
なお君主主権は、「決して君主が統治権の主体であるという意味ではない」。統治権は国家の権利であり、君主の権利でも国民の権利でもない。
「第二講(下) 天皇(その一)」
「一 天皇の国法上の地位」
「天皇は国家の最高機関なり」
言うまでもなく、天皇は日本の君主として、国家権力すべての「権力の最高の源泉」であり、日本の「最高機関の地位」にいる。
「君主が統治権の主体なりとする説の誤謬」
法律上ある権利を有するとは、その権利がその人のためにあり、その権利に基づく行為は、法律上その人の行為たる効力を有するということを意味する。つまり君主が統治権の主体ということは、統治権が「君主の御一身の利益のために存する権利であり」、統治の行為は「君主の一個人としての行為」であるということを意味する。
しかしこれは「我が古来の歴史に反し我が国体に反するの甚だしい」。 君主が御一身の利益のために統治権を有するなら、統治権は君主自身の目的のために存し、君主国民が目的を異にし「国家が一つの団体であるとする思想と全く相容れない」(例、租税を課すことは君主自身の利益のためではない)。また法律や勅令は君主一個人の行為ではなく、国家の行為である。だからこそ「これらのものはいずれも君主の崩御にかかわらず永久的の効力を有する」。
国家が統治権の主体であって、君主は国家の最高機関であるということは、以上のことを言い表したにすぎないのである。
美濃部達吉『憲法講話』(2018年、岩波文庫)36-42頁、78-81頁。