2022年6月18日土曜日

団藤重光「滝川幸辰博士の想い出」

 滝川幸辰博士の生涯を一語か二語で表すなら、「おそらく『闘争』と『激情』ということばがいちばんふさわしいであろう」。博士は、アンゼルム・フォイエルバッハのことが好きだったようで、「火山にたとえられたかれの激情的性格と闘争的精神がおそらく博士の共感を呼んだにちがいない」。

 博士の「学者的精神」は、学生時代の「わが国における大学自治の歴史上、まさに特筆に値する事件」であった沢柳事件の中で養われていった。そして後に、博士自身が中心となり「京大事件」がたたかわれた。事件において、博士は当局からの辞職要請に「頑として応じられなかった」し、京大法学部も一致して学問の自由のために行動した。最終的に、鳩山一郎文部大臣は、文官分限委員会の開催を要求し、博士は休職となった。これに対し、法学部の教授助教授助手副手は「即日辞表を提出し、京大法学部はしばらく壊滅状態となった」。これは「旧日本が自滅の道をたどる過程のひとこまであったといってよい」。

 敗戦後、博士は法学部長、総長を務めた。学部再建のため「かなり思い切ったこともされたらしい」。この過程で、筋を通すために「敵を作ることも、博士の意に介するところではなかった」。 

 博士は、小野清一郎博士とともに、古典派刑法学の代表者であった。共に構成要件理論を前提にしつつも、両者の学説の背景などははっきりと異なっていた。小野博士を「仏教的」とすれば、「博士のそれは無宗教主義的であり」、「前者を普遍主義とすれば後者は個人主義・自由主義であった」。博士は京大時代、勝本勘三郎博士の講義を聞かれた。勝本博士が有名な刑法学者の逸話を紹介するのが面白かったようで、後にフォイエルバッハを紹介する本を読むことになったが、それが刑法学者を志すきっかけになったとされる。

 「闘争と激情は、博士の一生を支配した」。「最後に心筋こうそく症が一瞬にして博士をこの世からうばった」。

団藤重光『わが心の旅路』(1986年、有斐閣)342-352頁。


2022年6月5日日曜日

小浦芳雄「ほんみち事件」

  「治安維持法違反として」

 ほんみち幹部らを取調べた予審判事の立石金五郎という人が、「新興宗教はみないんちきや、そういう観念をもっていた」と言っていた。ところが彼は、ほんみち信徒を取調べているうちに、「ぼくの心境が変わってきた」。「ひょっとしたら、機縁があったら、ほんみちを信心したかわからん」ときた。

 彼は続けて、ほんみちが正しいか間違っているかを判定する材料があると言った。第2次世界対戦、大東亜戦争の結末がそれである。今回の戦争で日本が勝てば、「事実上日本の天皇が東洋の天皇になろう」。こうなれば僕らの勝ちで「お気の毒ながら甘露台さんは負けだ」、「戦争に失敗した場合は、残念ながら甘露台さんの勝ちだ」、と。これに私も大賛成した。なお当時の裁判長で僕達は負けたという裁判官がいた。「ほんみちは真理の戦いにおいて日本帝国に勝った」、と。これは自分もそのように思う。

 「弾圧下の教団」

 この事件の対象となったほんみちの目的はどうだったか。「大日本帝国では、天皇は現人神である、万世一系で、天壌とともにきわまりなかるべし」だったが、この考えは一口で言えば迷信であり「迷信を打破しよう、そして日本を救おう」これであった。「天皇にさえすがっておったらというような、それはとんでもない迷信」の「ご利益がなかったということは大東亜戦争で分かった」。天皇の「人間性」(人間宣言)を国民が知っていたら「大東亜戦争は起こらなかっただろう」。これらをしらそうとしたのがほんみちであり、大東亜戦争を防止するのが目的であった。

 そして日本の敗戦について言えば、これは「少年時代のがき大将がいばっておったのといっしょ」であるが、これはプラスにはなれこそマイナスにはならない。迷信を打破でき敗戦により日本人は反省を知ることとなった。「もし大東亜戦争に負けなかったら、日本人はどこまでも風船のように思い上がっていくかもしれません」、「それこそ恐ろしい」。

小池-西川-村上編『宗教弾圧を語る』(1978年、岩波新書)132-134頁、153-154頁。太字部分はこちらが付したもの。


団藤重光「滝川幸辰博士の想い出」

 滝川幸辰博士の生涯を一語か二語で表すなら、「おそらく『 闘争 』と『 激情 』ということばがいちばんふさわしいであろう」。博士は、アンゼルム・フォイエルバッハのことが好きだったようで、「火山にたとえられたかれの激情的性格と闘争的精神がおそらく博士の共感を呼んだにちがいない」。 ...